「社長をやってみるか」 先代の一言から誕生した最年少蔵元
通常は協力しあうことのない酒蔵同士が復旧に向けて手を取り合う━━これが実現した背景には、数馬氏の人柄と、経営者としての先見の明があるのは間違いない。
数馬氏は幼少期から高校時代まで能登で過ごし、東京の大学に進学。卒業後はコンサルティング会社に就職し、試行錯誤しながらも順調にキャリアをスタートさせた。
そうした中、突如として実家から「そろそろ手伝わないか?」と連絡が届く。帰るやいなや「社長をやってみるか?」と先代からの一言。大した引き継ぎもないまま社長に就任した。当時まだ24歳のことだった。
「当時は東京で頑張るつもりでしたし、このタイミングで家業を継ぐという選択肢は自分の中にはなかったので驚きました。でも、『チャンスの前髪』じゃないですけど、ここで断ったら次はないかもしれないと直感的に感じ、気づけば二つ返事で継ぐことになりました」
当時日本最年少の蔵元は、こうしてあっさりと誕生した。重要な決断を軽やかに決めてしまう思い切りの良さと、後述する経営改革に象徴されるような、思慮深い原点思考の二面性が数馬氏にはある。最年少蔵元の誕生と活躍は近隣の酒造にも徐々に知れ渡るようになり、通常はライバルであるはずの同業他社ともヨコのつながりが強まっていったようだ。震災という前代未聞のピンチに多くの仲間が駆けつけたのも、数馬氏に賛同する仲間が多かったことの証左かもしれない。
季節雇用の杜氏に頼らない酒造り 醸造責任者制への転換
数馬酒造は、それまでの能登の酒造りの常識からは反するような改革を近年いくつもやってのけている。その中の一つに、外部から杜氏を招く慣習に依存しない「醸造責任者制」の導入がある。
能登といえば全国的にも名の通った「能登杜氏」が存在し、伝統的に酒造りの中核を担ってきた。杜氏はどこかの酒蔵に所属しているわけではなく、一定期間酒蔵に泊まり込みで酒造りを行う、いわばプロフェッショナルの季節労働だ。この伝統が長く能登の酒造りを支えてきた。
一方で、杜氏という職業のなり手は減りつつあり、高齢化や後継者不足が深刻化している。蔵元を継いでからの数馬氏には、「自分たちで醸造技術を蓄積しないまま外部に頼った酒造りを続けることは果たして持続可能なのか?」という思いがあったという。
「2015年にそのときの杜氏さんが辞められたのを機に、段階的に『自社での醸造責任者制に移行』する方針を打ち出しました。若手社員も含め社内でノウハウを共有し、従来の泊まり込みの24時間体制ではなく、働き方改革とも連動する持続可能な酒造りのスタートです。若手社員が『自分に任せてもらえないか』と前向きに手を挙げてくれたこともあり、社内で意思統一しながら開始できました」
外部からは「能登杜氏の伝統を軽視するのか」といった批判や、先代である四代目からの猛反対もあったが、綿密な議論を重ね、「能登の酒造として長期的に酒造りを続けるための戦略」であることを社内外に理解してもらう努力を続けた結果、現在の体制の構築にこぎつけた。